「チャンネルを合わせろ」展について     2000年

 

今回の展示では過去5年間で制作しましたものを、できる限りたくさん展示しました。ですから、総括的意味もあるのです。テーマとしては、ほぼ一貫してい

 

ますが、全体としてみる事で時間の流れが感じ取れると思います。

 

僕の芸術感や人生哲学を基本として制作しているのですが、一言でコンセプト的なことをいうとすれば、芸術は日々の生活からしか生れないということです。

 

作品の制作について一つ一つ具体的なコンセプトはないのですが、僕は持論を実践するために常に作る環境と住む環境を一緒にすることが必要だと思って

 

います。人間というものは環境によりつくられるものです。

 

このチャンネルという言葉が気になりだしたのには、あるきっかけがありました。ある番組を見たとき、生態間の記憶の伝達についての推論とそれを生物学的

 

実験から研究したデータが説明されていました。彼はオランダの生物学者であり、同種の生態がどうやって情報を伝達して、自分達の知識や経験を仲間や

 

子孫に伝えていったのかという、本来人間が持ち合わせた通信の能力や生態間での情報の共有といったことを考えていました。

 

彼は科学的見地から、同世代、次世代間の生態間の記憶の構造を解明しようとしています。私達が過去から情報を得ようとするときには建造物であったり、

 

古代文字の解明から昔の生活を推察したりします。現代では発達した通信手段や言葉での会話で情報を伝えます。科学の発展もあり、最近はDNAで記憶を

 

伝えることがわかってきましたが、この様に同世代、次世代間の情報伝達を支えているのは、技術力です。

 

現在存在している動植物は長い時間をかけて進化し、生き残ることができた種なのです。勝ち残るためには、情報処理を的確に行い、危険に対して最適な

 

判断をしてきたと考えられます。

 

しかし、伝達手段の少なかった昔はどのように危険を瞬時に伝えてきたのでしょうか。

 

世界各地でシャーマニズムやテレパシーといった技術を用いたり、自然を観察することで情報を得ていた。情報技術がない世界では個々が自分の肉体を

 

使って感じていなければ生きられなかった。

 

生きるということは感じることだったのです。技術がどれだけ進歩しても、芸術は生身の身体で感じなければいけません。個と個の情報交換なのです。

 

感動とは人からもらうものではなく、自分で作り出すものです。ですから、どれだけいろんなものを見たり聞いたりしても、自分の受容体がなければ、または

 

育っていなければ、何も生れないのです。理解は必要ないのです。感動とは理解よりも前に感じる行為ですから。

 

戦後の日本社会では、経済に組み込まれないものや目に見えない現象は切り捨てられる傾向にありましたが、人間や自然がもっている根源的な力は、私達

 

が存在する限りなくなりませんし、現在ではそれを見直す方向に社会全体が動き始めたと感じています。

 

私は生態間の記憶の伝達という問題を美術の分野から自分自身の内面を見つめる作業により取り組んでいます。同世代、次世代につなげていく記憶という

 

のは、美術が常時取り組んできたテーマです。「チャンネルを合わせろ!」というのは、人間が本来もっている感じる力を意識したいという期待からつけたもの

 

です。それぞれの視点で鑑賞してほしいと思っています。 <八尋 晋